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2011.09.25 Sunday  | - | - | 

【お知らせ】ジェニー・シーレイ演出『R&J』公演のご案内

JUGEMテーマ:演劇・舞台

お友だち2人がコーディネーターと稽古通訳として関わっている公演があります。
演劇は、障がいのあるなしにあまり影響ないと思います。
だって、ひとつの表現手段がダメなら、ほかの方法を考えればいいことだから。
それがクリエイティビティってことだと思う。
先入観を持たずに、いろんな方法論を使った舞台だと思って、
見に行ってください。
ぜひ!

**** ジェニー・シーレイ演出『R&J』公演のご案内 ****

『R&J』は『ロミオとジュリエット』をもとに、イギリス人演出家ジェニー・シーレイが作り上げた新作です。
自身もろう者であるジェニー・シーレイは英国のグレイアイ・シアター・カンパニーの芸術監督として、視覚的言語である手話、映像とともに字幕、オーディオスクリプションといった多様な手法を組み合わせ、ユニークな演出を確立してきました。演じる側にも、観る側にも、耳の聞こえない人や目の見えない人がいる、ということが前提に、誰にとってもアクセス可能な舞台を創り上げます。

今回の作品『R&J』では、シーレイは確立してきた手法をベースに、322名のオーディション応募者から選ばれた8名の俳優たちとともに、これまでの’演劇’の常識を覆した新しい形の舞台の創作に挑みます。
『ロミオとジュリエット』の世界を現代の若者たちの世界と交差させ、対立する家、世界や価値観などを描きます。


原作:ウィリアム・シェークスピア『ロミオとジュリエット』
演出:ジェニー・シーレイ
日程:2011年10月9日(日)・10日(月・祝) 14:30開演
会場:彩の国さいたま芸術劇場 小ホール


<キャスト>
 若菜大輔
 中村ひとみ(大阪ろう者劇団鳳凰)
 大橋ひろえ(サインアート プロジェクト.アジアン)
 高橋佑輔(立花演劇研究所)
 奥本真司
 野沢健(bug-depayse)
 山野茉璃乃
 金崎敬江(miel)


<スタッフ>
舞台美術:杉山至+鴉屋
  照明:岩品武顕((公財)埼玉県芸術文化振興財団)
  音響:山海隆弘((公財)埼玉県芸術文化振興財団)
  衣装:川口知美(COSTUME80+)
舞台監督:平井 徹((公財)埼玉県芸術文化振興財団)
演出助手:倉品淳子(山の手事情社)
フライヤーデザイン:京(kyo.designworks)
コーディネーター:吉野さつき
稽古通訳:山田規古
日本手話コーディネーター:米内山陽子(トリコ劇場)
イギリス手話通訳:ジェニ・ドレイバー
制作助手:今井由希  


<チケット取り扱い>
http://www.saf.or.jp/ (PC)
http://www.saf.or.jp/mobile/ (携帯)
詳細はウェブサイトをご覧ください
http://w1.blue.onlineticket.jp/saf/main.jsp?prm=U%3D22%3AP10%3D7%3AP6%3D145%3AP2%3D062364%3AP3%3D0001%3AP0%3DGGWI02

公式サイト
http://r-and-j.jugem.jp/

稽古場ブログ
http://r-and-j.jugem.jp/

Twitter
https://twitter.com/#!/RandJ1009
 
2011.09.25 Sunday 01:37 | - | - | 

本音・・・「バカヤロー、先に死ぬな」

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
 土曜日に、先月亡くなったえーちゃんのご両親が再度上京し、
マンションの引っ越しをした。
男の子(って何度も言うがおじさんだけど)は引っ越しの役に立つだろうけど、
私は行ってもやることないかなと思い、遠慮したが、
その日の夜に、すぐに報告メールがあった。
同級生2人と同僚3人が来たそうだが、
集合時間には、すでにご両親がきれいに部屋をきれいに片づけていたそうだ。

えーちゃんが住んでいた場所を、生活感のある場所を見ておきたかった気もしたが、
なんだか、ほんとに、居なくなったことがどうしようもなく悲しくなって、
それでなくても、一番つらいご両親の前で、
大泣きしそうだったのも、遠慮した理由のひとつだ。

今日、報告をくれたおじさん(これは、もともとおじさんのおじさん)に返信しながら、
またしみじみと悲しくなった。
部屋のソファがあったところに、タバコの灰で出来た焼き痕があったんだって。
そう言えば、霊前に同僚の方がタバコをお供えしていたのを思い出した。

大学時代には、まだ「可愛い女の子」だったので←幼いという意味でね。
おじさんたちは、今もって人のことを年下扱いするが、
私も、けっこういい年で、ずーずーしくなってきたので、
ここで、本音叫んでいい?

バカヤロー、タバコなんか吸ってんじゃねーよっ!
ざーけんなよっ!
なに一人で先に死んでんだよっ!
一人っ子が、両親残して先に死ぬってアリかよっ!
介護問題、これで解決かよっ!
マジ、ふざけんなよっ!
時間を戻して欲しいよ。
えーちゃんが病気になる前に、時間を戻して欲しいよ。
えーちゃんを返して欲しいよ。
えーちゃんが死んじゃうなんて、マジ、ありえねーよっ!
バカヤロー!!!!!!!
チョーマジ、バカヤロー!!!!!!!!

きっとね、今、日本でこういう思いをしている人、
たくさんいると思う。
1カ月経って湧き出てきた、先月とは違う感情、ことば。
だれに言ったらいいのか分からなかった。
分からなかったから、とにかく叫んだ。
ここに書き出して、吐き出してみた。
また、来月には、違う言葉が出てくるかもしれない。
2011.07.18 Monday 01:45 | - | - | 

涙のキッス、もう一度・・・

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
 今朝、大学の同級生が亡くなった。
2,3日前に、仲良くしていたグループの男の子(っていうか、もうおじさんだけど)から電話があって、
末期がんだと知らされた。
まだ、すぐにどうこういう状態でもないから、来週一緒にお見舞いに行こうと約束した。

今朝9時に起きたら、携帯に留守電が入っていた。
9時前に仕事の電話は来ないはずだし、嫌な予感がして聞いてみると、
「えーちゃん」(発音は矢沢永吉と同じ)が今朝がた息を引き取ったという。
そして、今日の午後一には、ご両親と車で入院先の病院から、
故郷の山形に帰ってしまうとのことだった。
お父さんの意向で、勤務先の人も来られるよう、
来週の土日に地元の山形で葬儀を行う予定とも言っていた。

今日を逃したら、永遠に会える機会がなくなる。
そう思って、急いで支度をして、飛んで行った。
母は、喪服が、お香典が・・・と口をはさんだけど、
私にとっては「えーちゃんに会いに行く」という感覚で、
むしろ、可愛い恰好をしていきたいくらいの気持ちだった。
それでも、黒に渋い赤い彼岸花の模様のワンピースに、
黒のバッグと靴を慌てて揃えた。
ふと、「あ、あれを渡してあげよう」と思い立って、
フランスの写真家、アンリ・ラルティーグの写真集を本棚から取り出した。
これは私のお気に入りの写真集で、えーちゃんに見せたら、
「久しぶりにスカッとおもしろいもの見た」と面白がってくれたのだ。
もう20年前くらいの話だけど。

えーちゃんは、ちょー個人主義なうちのクラス約70名の中でも、
明るくて、みんなに好かれる男の子だった。
サザンの桑田さんにそっくりだった。
街で、「あの、桑田さんですか?」と声をかけられることも何度もあったと言っていた。
うちのクラスの男子はほとんどが浪人していたので、
現役で同じ年の男の子は3人くらいしかいなかった。
えーちゃんはその一人だ。
映像作家を目指していて、在学中よりも、卒業直前から、卒業して互いに仕事を始めてから、
よく行き来するようになった。
ほかに、テレビの構成作家になった子、編集者からフリーライターになった子とか、
なにかしら、メディア関係の仕事についた男子グループが、
卒業してからもつながりがあって、
私はその中で、「芝居なんか一番小さいメディア」とか言われながら、
ちょこちょこみんなの後ろについて歩いていた。
失恋したときなんか、いきなり会社に訪ねて行って、泣きついた。
「お前に必要なのは保護者なんだ」と言って、
えーちゃんは、私の保護者を自認していた。
えーちゃんには、そんな迷惑な状況でも、人を絶対に拒まないと思わせてくれる包容力があった。

私が最初の勤務先がえーちゃんのアパートに近かったので、
夜遅くて、帰れなくなると、えーちゃんちに泊りに行った。
その頃、みんなでF1に夢中になっていて、
F1が夜中にある日は、何人もえーちゃんちに集まってテレビを見た。
ビリヤードも教えてもらった。
ともすれば、演劇と言う小さな世界の価値観だけでものを見てしまう私に、
いろんなことを教えてくれた。
それが私の心に風穴をあけてくれた。
みんな仕事を始めたばかりで、下っ端で大変だったけど、
夜中に遊びに行って、雑魚寝する体力もあったし、
本当に楽しかった。

えーちゃんは、卒業してから、いきなりダンスに興味を持って、
ダンスを習い始めた。
だって、もう23歳の男子なんだから、体が柔らかくなるわけないじゃん、と言ったけど、
本人は、それなりに楽しんでいるようで、
私は、おもしろそうなダンスの公演に何度か連れて行ったことがある。
この話を、今日、おかあさんにしたら、「全然知らなかった」と言っていたけど、
会社の同僚の方は、「そう言えば、踊ってた」と言っていた。
会社で踊るって、なにしてたんだよっ!と心の中で突っ込んでおいた。

今日は、病院の最寄りの駅まで「おじさん」が迎えに来てくれた。
おじさんは、おじさんになったからおじさんというのじゃなくて、
大学時代から、おじさんと呼んでいたおにーちゃんたちの一人。
彼によると、えーちゃんは去年の末くらいから体調が悪く、
医者で見てもらったところ、すぐに大病院に紹介状をくれて、
さらに検査をしたら、首のところにガンが出来ていて、
もう第4ステージまで進行していたんだそうだ。
「だって、会社員なんだから、健康診断とかなかったの?」と、
おじさんを責めても仕方ないのに、つい強い口調になってしまった。

えーちゃんは、学生時代のルームメイトで、介護関係の仕事をしているNくんに、
ずっと治療法などを相談してきたそうだ。
やはり、衰えて行く姿をあまり人に見せたくなくて、友だちには知らせなくていいと言ってたらしいが、
先月末になって、「大学時代の友だちに会いたい」と言いだしたという。
ところが、うちのクラスはちょー個人主義学科だったから、
定期的に名簿の更新なんかする子は一人もいないし、
それぞれが横のつながりもあまりない。
それで、唯一仲間内で、学生時代の名簿を持っていたIくんが、
親しかったと思われる人に、電話をして知らせたという。
でも、女の子は姓が変わっているし、一人暮らししていた子はもうとっくに引っ越しているし、
なかなか連絡がつかなかったらしい。
それで、Iくん→おじさん→私という経路で、連絡があった訳だ。

病院の霊安室というものに初めて行った。
ドラマに出てくるような、くら〜いところかと想像していたら、
すでに祭壇があって、ちょっとした畳の休憩スペースもあって、
そんなに気持ちが沈むようなところではなかった。
私が着いたのは、息を引き取ってからだいぶたっていたので、
お父さんも、お母さんもすでに涙はみせず、
優しく対応してくださった。
明るくて冗談ばっかり言ってたえーちゃんのご両親らしいと思った。

祭壇の前に寝ているえーちゃんは、本当に眠っているようだった。
顔色も悪くなく、やつれたようすもない。
髪の毛は放射線治療のため薄くなっていたけど、
私の覚えているえーちゃんだった。
「えーちゃん、えーちゃん」と何度も名前を呼びながら、
肩をゆすってみたけど起きなかった。
頬を触ったら、冷蔵庫に入っていたみたいに冷たかった。
それでもまだ、「死んでいる」という実感が持てなかった。
そこにいるのは、えーちゃんで、死体だとは思えなかった。
涙が出てきて止まらず、膝からくず折れそうになった。
おじさんが、横から支えてくれた。

持ってきた写真集を出して、「えーちゃん、これあげる。ずっと持ってていいよ」と言った。
Iくんは、えーちゃんが好きだったCDを持ってきていた。
会社の同僚は、好きな銘柄のタバコを具えた。
みんながえーちゃんの好きなものを知っていた。

あの頃の未来にぼくらは立っているのかな。
すべてが思うほど、上手くはいかないみたいだ。

ずっと、「夜空ノムコウ」が頭の中で流れていた。
一緒にいろんなものを見て、表現とはどうあるべきかなんて話していた頃、
思い描いてた未来に、今、私たちはいるのだろうか?
でも、えーちゃんが死んじゃうなんて未来は、夢にも思ってなかったよ。
桑田さんに似てるから、「年取ったら、きっと長門弘之に似てるっていわれるよ、きっと」と
からかっていたのに、
そうなる前に、死んじゃうなんて、思ってもいなかった。

あの頃、えーちゃんのアパートに遊びに来ていた彼のいとこにも会った。
フランス料理のシェフになりたいと言っていたのに、
急に、故郷に帰って、刃物の職人になったと聞いていた。
えーちゃんは、「料理を突き詰めると、刃物になるらしい」とか言っていたので、
それをずっと信じていたら、
なんと、鍛冶屋さんは家業で、家業を継いだっていうのが真実なんだそう。
「え〜、今までえーちゃんに騙されてた〜」と言ったら笑ってた。
私は、おにーちゃんたちの言うことをなんでも信じてしまうので、
いいおもちゃにされていたらしい・・・・

最後に、主治医の先生と看護師さんがお別れに来た。
そして、えーちゃんを車に乗せるため、葬儀屋さんがストレッチャーを持ってきた。
おじさんが、「もう一度、顔をみよう」と言ったので、
顔にかけられた白い覆いを取った。
それでもまだ、眠っているようだった。
私は静かにおでこにキスした。
おじさんは、子どもの熱を測るときのように、
おでことおでこをくっつけた。

あんなに冷たかったのに、それが「死体」だと思えなかった。
この矛盾、なんだろう?

涙のキッス、もう一度。
だれよりも、愛してる。
最後のキッス、もう一度だけでも、
君を胸に抱いて。

大好きだった。
今日、弔問に訪れた人のリストの中に、
一学年下の女の子Sちゃんの名前を見つけた。
Iくんに「Sちゃん来たの?」と聞くと、
会社の昼休みに来てくれたそうだ。
えーちゃんは、ずーーーーっとSちゃんのことが好きだった。
Sちゃんも名字が変わっていたなかった。

こうして、一人っ子で、独身で、みんなに愛されたえーちゃんは、
ご両親と山形に帰って行った。
将来とか、未来とかいうことばが、まだキラキラしたものに思えた時代の終わり。

でも、えーちゃん、最後にキスしたのは、私だからね。
Sちゃんでなくて悪かったね。
今度、会う時には、思い切り抱きしめたいよ。
愛しているよ、これからもずっと。

2011.06.21 Tuesday 00:04 | - | - | 

人工呼吸器つけますか?〜人はいつ死ぬのか

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
「人工呼吸器つけますか」と、初めて聞かれたのは4年半前のことだ。
ある日、突然、父が倒れた。
ヘビースモーカーだったので、「肺がんになるから辞めたら?」とは言っていたけど、
今まで大病もせず生きてきたので、
最初は何が起こったのか分からなかった。
東京で打ち合わせをしている最中、「ちょっと一息入れましょうか」というタイミングで、
携帯に母から電話があり、父が倒れたという。
「どうしたの?心臓?」と聞いても、
「訳がわからない、とにかくおかしくなっちゃったのよー!」と母が悲鳴のように叫ぶ後ろで、
救急隊員の人の声が聞こえた。
取るものも取り敢えず、急いで病院に向かうと、
すでに搬送から2時間くらい経っていたのに、
まだ救急外来にいた。

私の到着を待って医師が説明をしてくれた。
脳梗塞らしい、その場合、梗塞が呼吸や心臓をつかさどる部分に及ぶと死んでしまう、
そうでなくても、脳が熱を持って膨張すると、頭蓋骨が割れて死んでしまう、と、
いくつかの「死に方」のパターンを説明された上、聞かれた。
「人工呼吸器つけますか」

その時に、一度つけて、意識が戻らない場合、植物人間状態になっても、
取り外すことはできない、殺人になってしまう、と言われた。

でも、母に聞いたら、その日は電車とバスを乗り継いでかかりつけの眼科に2人で行って、
帰りに駅ビルでおそばを食べて帰ってきたのだという。
いきなり、「死に方」の説明をされても、頭の中を素通りしてしまう感じで、
本当に「何言ってるの、この人」という感じだった。
処置が終わって、病室に運ばれ、入院に必要なものを取りに自宅に戻った数分の間に、
ググりまくって、説明をプリントアウトして、母や妹にも読ませた。
そこで、やっと事態が把握できた。

その時から、すでに4回、父は軽い脳梗塞で入院している。
そのたびに、救急外来では、「人工呼吸器つけますか」と聞かれる。
脳梗塞はいったん起こると、どこまでダメージが広がっていくか、止められない。
ただ、本人を動かさないようにして、広がらないようにするしかない。
(今では血栓溶解という方法もあるが、年齢制限があり、高齢者は適用されない)
だから、いつ呼吸が止まるか分からないので、救急外来では、
予め家族の意思を確認するのだろうと理解した。

2回目の発作のときは、てんかん発作を併発し、
ICUで、息が絶え絶えになっている父を見て、
医師が、すぐに呼吸器をつけるかどうか決めてくれと言った。
私と妹は、1回目に倒れたとき、最後は母の意思を尊重しようと話し合っていたのだが、
母は、どうしても家族3人で決めると言ってきかない。
父はことばが出にくくなっていたので、医師は、言語能力や呼吸をつかさどる、
脳幹部に梗塞が及んでいることを懸念して、
一刻も早く結論を出して欲しいと言ったが、
母が、頑として譲らなかった。
運悪く、姪がインフルエンザになっていて、妹がすぐに駆けつけてこられず、
次の日まで結論を持ち越したが、
結局、3人で話し合って、人工的な延命措置はしないことに決めた。

医師との話では、ひとつひとつの措置について聞かれた。
心臓マッサージはどうしますか、胃ろうはどうしますか、
人工呼吸器はどうしますか。
人工呼吸器をつけたまま、意識が戻らなければ、長期療養用の病院に転院しなければならない。
中には、雑な扱いを受けたりするところもある聞いていたし、
なにより、母には母の人生があって、それが一生介護に費やさなければならないとしたら、
あまりにも切ないと思ったからだ。
心臓マッサージも、蘇生しても5分程度しか持たないとのことで、
それなら、うちから急いでタクシーを飛ばしてきても間に合わない。
そのために、肋骨がボロボロになるようなことはしたくない。

そういった家族の意思は、そのたびに主治医が変わっても、
電子カルテ上に記載されて、申し送りされてきた。

今年2月に、今度はインフルエンザから肺炎を起こして、
またも、救急車でいつもの病院の救急外来に駆け込んだ。
そのときも、また「人工呼吸器つけますか」と聞かれた。
母は、反射的に、「いえ、それはつけないということで」と答えたが、
よくよく聞いてみると、肺炎の治療を行うために、
いったん肺を休ませて、抗生物質で治療してから、
元に戻して行くと言う。
その時点で、酸素吸入しても酸素量が足りず、
もう、こうやって話している間にも低酸素症にならないかと、
心配で、母にかいつまんで説明を繰り返して、
やっと、治療を受けることになった。
人工呼吸器を付けるには、喉に管を通すため、
意識を落とさないと、本人がつらいからということで、
眠らせることになった。
処置室で、麻酔をかける前に見た父は、おびえた表情をしていた。
このまま、意識が戻らなかったら、
父が最後に持った感情が恐怖だったら、
あまりにも悲しすぎる。

妹に、電話して状況を説明すると、
小さな子どものようにしくしく泣きだした。
それは、小さい時にいつも手をつないで遊びに行っていた妹を思い起させて、
こちらも、何の根拠もないのに「大丈夫だから、大丈夫だから」と繰り返すしかなかった。

「人工呼吸器つけますか」
何度も聞かれていたけど、実際に必要に迫られて決断したのは、
初めてだった。

肺炎の炎症が治まった頃、
また、主治医に呼び出されて、
状況の説明を受けて、こう聞かれた。
「人工呼吸器つけますか」

今回はなんとか乗り切れそうだけど、
父の年齢を考えると、再度肺炎を起こすことは十分に考えられる。
次回は、今回よりも体力が落ちているので、
人工呼吸器を付けたら、はずせなくなる可能性が高い、
なので、どうしましょう?、と。

今、病院では、状況を説明し、選択肢を示したうえで、
患者か、家族に方法を選ばせることが多い。
本人がいきなり意識不明になれば、家族が選択するしかない。
普段から、どうして欲しいと本人から聞いていればともかく、
そうでなければ、家族とは言え、自分以外の人の命に関わる決断を、
家族がしなければならない。
家族だからこそ、ものすごいプレッシャーがかかる重い決断になる。

私は、主治医に問い直してみた。
「以前は、なるべく人工的に延命するより、自然に任せて、
穏やかに最期の日々を過ごさせたいと思っていたけど、
でも、現実的に、呼吸が止まっても、心臓が動いていて、
呼吸さえ補ってあげれば、生きられるという時に、
それをしないのは、そっちの方が殺人になるような気がする。
心臓が動いているのは、命があるということなんじゃないでしょうか」と。
そうしたら、主治医は、それは、いろいろな延命手段が出てきてからの、
近代的な考え方ですね、と言った。
昔は、呼吸が止まり、脳に酸素が行かなくなって、心臓が止まるという順序で、
体の臓器が順々に機能を停止していくのが当たり前だったそうだ。
そして、脳に酸素が行かなくなると、本人は苦しいという感覚がなくなるので、
心臓が止まるまで、苦しむことはないそうだ。

人間は、いつ「死んだ」ことになるのだろう?
呼吸が止まった時、脳が損傷して意識が戻らないと分かった時、
心臓が止まった時。
どの段階で、本当に「死んだ」ということになるのだろう?

またも、家族3人で話あった。
正直、私は実際に暖かい体の父を前にすると、
あきらめ切れない気持ちもあった。
妹は、またも子どものように泣きながら、
「ずっと、管につながれて、物みたいになって生きてるのなんて、
パパがかわいそう」と言った。
それに、「ママとお姉ちゃんの負担を考えると、自分からはずっと生きてて欲しいとは言えない」
とも言っていた。
そんな遠慮はいいから、本当にどうしたいのか言わないと・・・、
だって、これで、パパの命が決まっちゃうんだよ、というと、
「だって、かわいそう。かわいそう」と繰り返した。
母は、腹をくくっていたのか、もう、これ以上、意識が戻らないまま、
延命する必要はないと言った。
本当は、退院して、うちに連れて帰ってきて、
最期まで家族で穏やかに過ごしたかったと言った。
そして、自分のときは、延命措置は一切必要ないと言った。
けれども、今の医療でむずかしいのは、
素人には、延命なのか、救命なのかが判断が付かないことが多いのだ。

私は、シェイクスピアのハムレットの中のセリフを思い出していた。
ハムレットの母、ガートルードがハムレットに向かって、
「ことばが息から出るものなら、息が命から出るものなら、お前を裏切る命はない」というのだ。
そうだ、聖書にも、神が人間を作ったとき、
息吹を吹き込んだと書いてある。
息をしていてこそ、人間は生きているのだ。

それは、当り前のようでいて、今の医療現場では、むずかしい選択を迫られる事実だった。

そうして、私と母が主治医にあって、結論を伝えた。
実は、その約束の日が、3月11日だったのだ。
それで、あの日は病院に行けず、月曜日に改めて主治医に会った。

先日、15歳以下の脳死の少年の臓器移植があったが、
ご両親の判断は、本当に尊いとつくづく思った。
突然の事故ということでも、気が動転しているところに、
そういった判断は、1週間じっくり考えて・・・というようなものでなく、
すぐに判断することが求められるのだ。
脳死についての一般論ではなく、
医者はそういうけど、もしかしたら奇跡が起こって、もう一度目をあけるかもしれないという、
諦めきれない家族の気持ちが分かるだけに、
決断を下した苦しみは、察して余りあるものがある。

人の命の決断を任されるのは、人間の役割の範囲を超えているような気がする。
それは、最終的には、神が決めることだ。
あるいは、自然と言い換えてもいい。
それは、今の医療の倫理にとっても、大きな問題であることに違いない。


 
2011.04.19 Tuesday 22:28 | - | - | 

義援金をNPOに送ろう!

[ diary ]
JUGEMテーマ:東北関東大震災
被災地以外の人に出来ることに、「節電」と「義援金を送ること」がある。
いろんなところ、例えば、テレビ局とか果てはコンビニに至るまで、
窓口はさまざまだが、
多くの義援金は日本赤十字社に送られる。
でも、ハイチ大地震の時もそうだったけど、
こういうときは、大きな組織にはお金が集まりやすく、
そうなると、その扱い(配分とか支払い)にも時間がかかる。
一刻を争う時に、お金が有効に使われるために、
私は、現地で活動するNPO・NGOに直接義援金を送ることにしている。

赤十字と言えば、安心してお金を預けられるところだが、
NPOに対して、まだまだ世間的な認識が低くて、
「お金を預けて大丈夫な組織なのかな」とか、
「ちゃんと使われているのかな」とか、
思われている節もあると思う。

けれども、実際、今東北に医療関係者を送ったり、
炊き出しを実施したりしているは、
NPOの人たちだ。
つまり、今、もう現地で働いている人たちなのだ。
私は、舞台芸術でも、商業演劇ではなく、
公共機関の助成を受けて作品を作る仕事をしている。
つまり、採算度外視しても、テレビに出ている人気者が出てなくても、
知的な刺激になるような作品を作ることを目指している。
こういう公共セクターの舞台芸術界には、
多くのアートNPOが存在する。
マスの需要がなくても、数は少なくてもなにかを必要としている人がいれば、
それに向けてサービスを提供する意義はある。
ある意味、大きな組織が手が回らないニーズ
を掬いあげるために、
NPOは存在する。

このページを見て欲しい。
「助けあいジャパン」
ここにNPO・NGOのリストがある。
今回私が寄付をしたのは、岡山にあるAMDAという医療を専門とするNPOだ。
また、「国境なき医師団」も今岩手に医師団を送っているし、
私も寄付をしたことがある。

AMDAは、アフガン戦争のときなどもずっと現地で活動していて、
よく、ニュース番組に現地の実情を伝えるために、
中村医師がインタビューを受けていた。
それで、興味を持って見ていたのだが、
この団体は、規模は小さいが、とにかく世界のどこにでも飛んでいく。
そして、初動が早い。
災害対応にとっては、決定的なことだ。
今回も、医師団が3月12日には岡山を出発して現地に入った。
そういう活動の内容も、すべてサイトで公開されている。

そういう小さい組織は、会計上の透明度はどうなのだろうかと
思われる人もいるかもしれない。
が、NPOよりもっとアバウトな「任意団体」の運営をしているひとりとして、
きちっと、サイトに財務諸表が公開されているところは、
まず大丈夫だと思っていいと思う。
というのは、大きな組織と違って、不正があればすぐバレルので、
長く活動を続けていけない。
寄付などで成り立っている組織なので、そこはけっこうちゃんとしている。

NPOをボランティア=タダ働きと誤解している人も多い。
NPOとは、not for profit(日本ではnon profitということもある)の略で、
営利を目的としないという意味である。
具体的には、事業で得た収益を、株式会社だったら株主に分配する、
つまり内部分配するのだが、
そうせずに、次回の事業費に回すことにしている団体という意味だ。
なので、当然、人件費などの経費は発生する。
そこを誤解されて、「なんだ、給料もらってるじゃないか」などと言う人がいるが、
それは、NPOの組織の在り方を全く分かってないが故の誤解である。

復興の道のりは長いと言う。
確かに、阪神淡路大震災の時も仮設住宅がなくなるまで、
ずいぶん時間がかかった。
その意味では、先々に向けて役に立つお金も必要だ。

それと同時に、今、体調が悪い人を助けるために、
医師を派遣したり、
子供のケアにあたったり、
今、やらないとならないこともあるはずだ。

私は、孫さんみたいに100億は寄付できないので、
少しの金額でも、より有効に、そして行き先が明確になるお金の使い方をしたいと思う。



 
2011.04.12 Tuesday 23:42 | - | - | 

高齢者と災害

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
 今回の震災の死者の過半数が65歳以上の高齢者だったそうだ。
うちも父を在宅介護していたので(今、入院中)、うちにいたらどうしただろうと思っていしまう。
高齢者でも、60~70代と80歳以上では体力が全然違う。
地震だけだったら、70代までで体が動く人はなんとかなったかもしれない。
が、やっぱり80歳超えるとガクンと体力が落ちるんだよね〜。
見たところ。

高齢者が多い地域というと地方の過疎地域を思い浮かべる人も多いかもしれないが、
首都圏にも意外な盲点がある。
70年代に作られたニュータウン。
みんなが同じ時期に一斉に引っ越してきて、
だいたい家を買う年齢が同じなこともあって、
うちの辺りは高齢者率がものすごい高い。
よぼよぼのおじいさんが、おばあさんを乗せた車椅子を押して、
坂の多い町を行く姿も多く見られる。
うちの団地も、自治会長さんが「独居老人、多いのよ〜」と言っていた。
前は、団地のだれかが亡くなると、掲示板にお知らせが張り出されたが、
個人情報の問題か、あるいはひとりずつ張り出していたら
間に合わなくなったのか、
いつの間にか張り出されなくなったので、
この団地内の状況もよく分からない。

団地の中には、高齢になって子供に引き取られたり、亡くなったりして、
空き家になったところに、新しい若い家族が入居してくるが、
近所でそんなに付き合いはないと思う。
増して、どこのうちがひとり暮らしだから、いざとなったら助けにいかないと・・・ということは
出来ないと思う。
多分、自治会が状況を把握していると思うので、
それは、委員の人が一段落してから安否確認することになるのかな〜。

うちの父は寝たきりではなかったが、
要介護5の寝たきりのお年寄りをかかえるうちでは、
どうするんだろうな〜。
寝たきりでなくても、足腰が弱っていて、
うちの中は自力で歩けるが、外に出るときは車椅子だったので、
玄関までどうやって連れて行こうかとか考えていた。
私が背負うしかないんだろうなと思っていたけど、
ここでもうひとつ、意外な盲点。
大人は重い・・・
子供だって体重が10キロ過ぎたら、ずっと抱っこしているのはつらいが、
大人は50キロくらいある。
海外旅行の20キロ入りスーツケースを持ち上げるのが限界の私にとって、
ほんと、「出来るのかな」って感じだ。
それでも、火事場の馬鹿力というので、いざとなったら力が出るだろうくらいに思っていた。

でも、震度5強というと、母の方もビビってしまって、
歩くのもけつまずきそうだし、
これでは、とても老人2人を連れて避難するのは無理だと思った。

あと、今回は自宅介護されていた方だと思うけど、
停電の影響で酸素吸入器など、医療機器の停止で亡くなった方もいる。
うちは、病院にいたので、自家発電に切り替わるようになっていたが、
それでも、突然の停電はとても心配だった。
こういう事故は、本来の地震では助かったはずの方なのだから、
絶対に避けなければならない。
でもな〜、私も父をもう一度うちに連れて帰って来たいと思っていたが、
母と、こんな状況じゃ無理かも・・・という話になっている。
それに、緊急時に救急搬送された病院が、電気を食うCTの電源を落としていて、
検査が遅れて重体になった方のニュースも読んだ。

さらに、高齢者は救出された後に、体調を崩して亡くなるケースも多い。
去年の奄美の集中豪雨の時もそうだったが、
ケアハウスの屋上に逃げ延びた方が、
助けを待っている間に低体温症でなくなった。
今回も、そういうケースはあった。

自宅介護している人は、家族で避難訓練やっておいた方がいいんじゃないか?
実際におじーちゃんとかおばーちゃんを背負ってどこまでいけるかとか。
医療機器の電源のバックアップも、常々心がけていないといけないと思った。
ケアハウスやケアマネさんとも、デイサービスなどにいるときの
避難経路や安全なども確認した方がいいかもしれない。

最後に、避難所にいるお年寄りには、なるべく水分を多く取るよう、
周りから勧めて欲しい。
この状況で無理な生活が続くと、脳卒中や心筋梗塞を起こしやすい。
水分を多めに取ることで、それが防げる。
だから、薬だと思って飲むように、勧めてあげてね。


2011.04.10 Sunday 00:01 | - | - | 

がんばれ、お洋服!

JUGEMテーマ:ファッション
 私は、お洋服を買うのにネットショップを利用することが多い。
それも、趣味がはっきりしているので、大手のサイトではなく、
個人が自分でデザインしたお洋服を作って売るようなサイトがほとんど。
というか、今はだいたい3つくらいのサイト+無印+ユニクロでベーシックなもの買うってくらいかな〜。
ユニクロも無印も、こんなときだって私が買わなくても、全然体勢に影響ないだろう。
でも、個人でやってるネットショップは、所在地が東北でなくても、
かなりしんどいようだ。

もう10年くらいお付き合いしている福岡のネットショップは、
すべてひとりの方がデザインから販売まで、
帳簿付けまでやっている。
デザインしたものを、ベトナムで作って売っているのだ。
2000年頃、ベトナム雑貨が大ブームになった頃、
たくさんのネットショップを「ウィンドウショッピング」して楽しんでいたけど、
その中で実際にお付き合いが続いてきた数少ないお店。
私自身が、フリーでひとりで仕事をしているので、
オーナーさんが経費をものすごく削る努力をしていることに応援したくなること、
その結果、他店よりお値段がお手頃なこと、
何より、デザインがかわいいこと、
ポケットがついていて使いやすいお洋服であること、
いろいろな理由があるけど、
ひとりで、毎日更新を続けるのは本当に大変なことだと思う、
というのが、応援したいと思う理由かも。

それでも、原油の価格高騰に伴う、ポリエステルの生地の値上がり、
円高による海外への支払いの値上がり、等々、
いろんな状況の中、さらにこの地震での買い控えが直に影響しそうだ。
私も、「生活するのに困らない」ものを作っているので、
自粛ムードというより、みんなが先のことが不安になって、
「ここは無駄使いせずに貯金しておこう」という気分が広がるのが、
仕事に直に影響する。
そのネットショップのオーナーさんが、買い控えされたら、
うちのような小さなショップはつぶれてしまう・・・と書いていたが、
彼女は、同じような境遇にある東北のネットショップからお買い物をすることにしたそうだ。

でもね、お洋服って大事なものだと思う。
衣食住っていうときの「衣」は、「とにかく裸じゃなくて、着るものがある」っていうレベルかもしれないけど、
今回も、東北にはヒートテックは絶対必要だったけど、
お洋服の役割はそれだけじゃない。
着る人の心を支えているのだ。
洋服と言うのは、実は個人と社会の接点である。
「人は見た目が9割」というのは、やはりその表面が持つ情報量の多さを指しているのだと思う。

私は、個人的に父が2月から入院して肺炎を繰り返していたので、
地震以外にも、気分が滅入ることを抱えていた。
おまけに、年度末に出た今年度の事業予算は、大きく削減されていたし・・・・
もう、世の中の経済活動の縮小、高齢者問題なんかが、
モロに影響している状態だった。

だから、近くに行くだけでも、自分の好きなお洋服を着ることにした。
それだけで、気持ちが落ち着くし、なんとなく、自分でいることに自信が持てる気がする。
地震後、初めて病院まで行ったとき、お気に入りのROUROUというブランドのお洋服を着て行ったら、
途中で、同じブランドのお洋服を来ている人を見かけた。
そうだよね、今日は、ROU服だよね、と心で「グッジョブ!」サインをした。

だから、がんばれ、お洋服!

不謹慎だとか、自粛だとか言ってないで、
女子たち、春になったよ、おしゃれをしよう!
爪を塗って、春らしい明るい色のお洋服を来て、
自分の気分を上げて、
見ている周りの人の気分も明るくしよう。
お洋服で、首都圏のこのなんだか浮足立った妙な不安感は、
かなり救われる気がする。
桜を見ると、やっぱり気分が明るくなるように、
明るい色のものは、気分を明るくする。
だから、華やかに、社会を照らす明かりになろう。

そうして、東北の女子たちにも早くその日が訪れるよう。
まだ10センチヒールでの通勤は厳しいかもしれないけど、
スニーカーだってきれいな色はある。
実用のユニクロだけじゃなく、裸じゃなけりゃいいんじゃなくて。

お洋服を買うために、私はせっせと働くよ。
2011.04.08 Friday 17:48 | - | - | 

地震ーパニックしやすいフランス人

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
地震の直後は、海外の友だちから「大丈夫?」というメールが来ていたのが嬉しかったのだが、
原発のことが問題になるに従って、
「早く逃げろ」とかヒステリックなまでにメールを寄こすヨーロッパ人にうんざりしてしまった。
フランス、ドイツはとても悲観的だそうだ。
中学の同級生がドイツに移住しているのだが、
実家が同じ町内なので、心配して何度もメールがきた。
それでなくても、なんとなく脳が疲れている感じで、
英語でものが書けない、かったるい状態なのに、
いちいち、どの被ばくレベルまでが安全なのかということを、
外国語で説明している余裕がない。
だけど、フランスのル・モンドのような国の代表的な新聞でさえ、
絶対、情報量が足りてないよ、っていう感じの記事で、
そのことに記者自身がキレてるだけじゃん、って感じだ。

今回の地震は、日本語を読める人と読めない人、ネットを使える人と使わない人の
情報量の差が如実に出たと思う。
ツイッターは、確かにデマも多いので気をつけないといけないが、
とにかく情報量が多いので、追っているうちに自分で取捨選択出来る。
が、うちの母の世代とか、外国人で日本語が出来ても、
今のツイッターのスピードについていけないレベルの日本語程度では、
やはり、情報量が圧倒的に違うのだ。
特に原発については、いろんな人の意見ではなく、
客観的な観測データを追っていると有効なこともわかった。
ル・モンドの記者は、政府が十分な情報を開示しないというが、
文科省のサイトで全国の放射線レベルの観測データを公開していることを知っているのだろうか?

フランス人の友だちに、「君はチェルノブイリって聞いたことがないのか?
健康被害はずっと後になって出るんだぞ」と言われた時には、
ブッチーーーンとキレた。
おめー、誰に向かって言ってると思ってんだよ!!!!!!!!
日本は世界で唯一の被爆国なんだよ〜〜〜〜〜〜。
チェルノブイリが20年のデータしかないとしたら、
こっちは、1945年にすでに被爆してるんだよ!
釈迦に説法だよ!

このフランスでのヒステリックな騒ぎは、2003年のSARSの時の騒ぎを思い起こさせた。
私は、その年フランスに住んでいたのだが、
とにかく、アジア系で咳をしてたら白眼で見られるという感じだった。
実際に、シャルル・ド・ゴール空港からアジア系の人がマスクをしてTGVに乗り込んできたら、
その車両の乗客がすべて、ほかの車両に移ってしまったということもあった。
また、小学校で、アジア系の先生がボイコットされたり、
パリでも、「中国人はひとつのアパートに大家族で住んでいるから、
次から次に伝染して死んでるんだ」という「都市伝説」が流れて、
私が住んでいた中華街は、閑散としてしまった。
ちなみに、葬式なんて一度も見たことなかった。
日本人の友だちと、「外で咳も出来ないよね〜」
「でもさ〜メトロの中で咳したら、みんな降りちゃって、座れるんじゃない?」
とか、バカなことを言っていたが、
それは、とても現実味のあることだった。

フランス人は、おしゃべり好きと言われるが、
それは同時に噂話好きでもある。
そして、すぐ噂を信じやすい。
でもって、あれでラテン系なので、けっこう頭に血が上りやすい。
だから、デモがあったりするとすぐに暴徒化する。
だいたい、フランス大革命だって、その噂が広がって暴徒がバスティーユに押し寄せたってことでしょ?

それに、ちょうど来日していたイスラエル人の舞台関係者が、
滞在期間を切り上げてさっさと帰ってしまったのにも、
友だちと大爆笑させてもろた。
イスラエルの方が安全か?
実際イスラエルに行ったことがあるけど、今の横浜とエルサレムとどちらを取るかと言えば、
私はやっぱり日本がいい。

私は、2度の湾岸戦争をフランスで経験している。
つまり、「戦時下」の国に住んだことがある。
パリは日本人の知り合いも多かったので、
それほど情報には困らなかったが、
親はものすごく心配して、帰ってくるように言われた。
←帰らなかったけど。
例えば、不審物があると、すぐに付近一帯が封鎖されて、
行ってみて、初めて通れないことが分かったりすることもあった。
だから、もし、言葉が十分に分からないのであれば、
帰るところがある外国人は、絶対的に情報が足りなくなるし、
それを読み解くコンテクストも共有してないので、
いったんは国に帰った方がいいかもしれない。
それに、地震自体、彼らにとってはものすごく恐怖で、
ストレスになることだと思うのだ。
←私だってストレスだけど、一応子供の頃から東海大地震が来るって言われて育った地域なので、
多少の覚悟はある。やっぱ、怖いけど。

でも、お願いだから、それでなくても心に負荷がかかっている私たちに向かって、
ヒステリックになるのはやめて欲しい。
私は、原発がどうなろうと、どこへも行くつもりはない。
首都圏を支えるための電気を作るために、
他県の県民が避難生活を送っているのに、
それを享受している方が、安全な場所に逃げるというわけにはいかない。
私のささやかな抵抗である。




 
2011.03.22 Tuesday 01:18 | - | - | 

地震二日目

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
 4時の地震のあと、また寝た。
起きて、枕元の携帯をチェックしたら、案の定カナダの叔母からのメールが来ていた。
バンクーバーなので14時間遅れ。
テレビのニュースを見て、びっくしてしまったらしい。
だいたいニュースは一番被害がひどい、言ってみれば「フォトジェニック」なところばかり流すので、
なんだか日本中が津波にさらわれたような印象を与えがちだ。
例えば、青森でも太平洋側ではなく、津軽の弘前の方はどんな状況だったのかなんていう
「地味な」情報は入ってこない。
多分、びっくりすると思ったので、予めメールしておいたのだが、
すでに、伯父2人には電話してつながったと言う。
叔母2人にはつながらないので、そちらからかけてくれという。
あとで、伯父に聞いたら、朝4時にカナダからの電話でたたき起こされたそうだ。
よっぽどびっくりしたんだろうな〜。

病院は土日は主治医がいないので、とにかく月曜日に行こうということになった。
テレビを見ていると、昨日は見えなかった惨状が次々に映って、
テレビの前を離れられなくなった。
あまりの惨状に、感情がストップしてしまったようで、
悲しいとか、辛いとか、かわいそうにとか、そういう具体的な感情が出てこなくて、
ただただ、映像とツイッターの文字情報を追っていた。
人間、ショックがあまりに大きいと、
それを真正面から受け取ると脳の許容範囲をはみ出してしまうのを防ぐためか、
感情が遮断される気がする。
私は、9・11の時に、ツインタワーから人がバラバラと飛び降りる映像を見すぎて、
(今も、思い出すだけでダメだ・・・)
連日、すごくリアルな悪夢に苦しめられた。
今回は、父が重篤な状態にあり、自分の家族のことだけで精いっぱいだったので、
脳が、自動的に感情移入をストップしたのかもしれない。

ツイッターでは、関西淡路大震災の経験者の方が、
とても具体的で、役に立つ知恵を教えてくれた。
まだまだ思い出したくないことだろうに。
ありがとう。

カナダの叔母に報告すべく、茨城と都内の叔母に電話。
何度か電話してやっとつながった。
茨城の叔母は、ずっと町の体育指導員をやっていて、
ちょうどそのクラスのときに地震が起こったそうだ。
参加していたお年寄りを一通り送り届け、
うちへ帰ってみたら、家具とか大きなものは倒れていなかったけど、
食器などが落ちていたと言う。
都内の叔母も無事だった。
PCを立ち上げるのが面倒だったので、携帯からカナダの叔母にメール。
FBにも、友だちが心配してメッセージを書き込んでくれたりしてたが、
ひとりひとり返信する余力がなかった。

夕方、停電に備えて電池を買っておこうかということになり、
4時ごろ、近くのスーパーに出かけてみた。
(つづく)

2011.03.20 Sunday 01:16 | - | - | 

人生最大の地震

[ diary ]
JUGEMテーマ:日記・一般
関東人だから、小さい時から、いつかは東海大地震が来ると言われてきた。
小学生の頃は、男の子たちがよく「富士山が爆発するんだぜ」とか言ってた。
うちは、元々山だったところを切り開いて建てられた団地なので、
高台にあるし、地盤も固く、
今まで、うちの中で物が落ちたりする地震にはあったことがない。
私はなにかにつけ怖がりで、特に地震は火事と違ってその場から逃げだせないので、
とても怖い。
なので、地震にあったときには、うちにいたらいいなと思っていた。
ちなみに、記憶の中で一番大きな地震は中学か、高校の時。
同じ区内の友だちのマンションの9階のうちでは、棚からものが落ちて怖かったと言っていたけど、
うちは、大して揺れなかった。
それが一番大きい地震かな〜。

3月11日は、ちょうど入院している父の病院に母と行くことになっていた。
せっかちの母がもう出かけられるよう着替えていたのに、
まだフリースでうろうろしていたら、
「早くしなさい」と言われて、PCを落として準備しようかと思っていたら、
部屋のドアがカタカタ鳴り始めた。
風で鳴ることもあるけど、地震かな〜と思って、
となりのリビングにいる母に、「揺れてる?」と聞きに行ってみると、
リビングの照明がブルンブルン揺れていた。
この照明は、以前はガラス製で重かったのだが、
95年の阪神淡路大震災の後、プラスティック製に変えたので、
軽くて、よく揺れた。
なんだか、船に乗っているように、右に左に、上に下に揺れ始めた。
「え、これ結構大きくない?」と言って、ガス栓を閉めた。
とにかく、あまり揺れたことがないので、揺れたときにどうしたらいいのか、
とっさに思い浮かばず、母は「どうしたらいいの?どうしたらいいの?」と言うし、
私は、入院中の父が心配で、「パパ、大丈夫かな、大丈夫かな」と口走っていた。
このまま、どこまで大きくなるんだろうという恐怖を感じた。
揺れが長く続いたので、とにかく玄関をあけて、母をすぐ出られるように玄関に移動させた。
やっと揺れが収まっても、なんだか船酔いみたいにずーっと揺れているような感じがした。
すぐにテレビを付けたら、速報になっていて、
東北が震源だと言うのでびっくりした。
これで駿河湾が震源だったら、どんだけ揺れるんだ!

その後も何回か余震があったので、玄関はストッパーをかけて半分あけておいた。
うちは1階なので、逃げようと思えばすぐ逃げられる。
となりのおじさんが新聞を取りに出てきたけど、
なにもなかったように家に入って行った。

とにかく病院が心配だった。
なぜなら、父は人工呼吸器をつけているので、
それが地震で電源が抜けたり、機械に不具合が出てくると命に関わるからだ。
母と二人でしばらくテレビを見ていて、
主治医と約束した時間のぎりぎりに出かけようと思ったが、
余震が続くので、その日は断念した。
それを伝えようと何度も病院に電話したがつながらなかった。

幸い、うちは電気、ガス、水のすべてのライフラインに支障はなかった。
母は、明るいうちに、と言って、すぐにご飯を炊いた。
愛知にいる妹も、父のことを心配していると思い、
何度も電話したが通じない。
メールだけはしておいた。
テレビのニュースで、建物に亀裂が入ったところがあるというので、
一度暗くなる前に、外に出て建物を見てみたが、
なにもなかった。
外は、なんだかグレーの変な空の色で、風が強く吹いていた。
だれも外に出てなかったが、うちの上の階の女の子が降りてきた。
お稽古に行くと言うので、「地震、気を付けね」と言った。

PCが立ち上げられたので、すぐに海外の友だちとの連絡用に使っている
Facebookに、「無事だ」ということだけ書き込んで、
カナダに住んでる叔母に、「うちは大丈夫だから」とメールをした。
そうしたら、友だちが新橋駅前で帰宅難民になっているを発見!
テレビよりツイッターの方が情報が早く、テレビを見ながらツイッターを追って、
動いている交通機関を携帯にメールした。
が、なんどメールしても戻ってきてしまう。
うちの妹だけど、マジ、SB、電波最弱・・・と思った。
下手すると、災害時に明暗分けるよ。

何度もかけるうちに、こちらから妹のところに電話がつながった。
まだ病院と連絡が取れてないというと、不安がっていた。
「メール届いた?」というと、返事したという。
受信してみると、いつもは自動で流れてくるメールが、
問い合わせしないと届いてなかったのが分かった。

うちは、義弟の実家が青森、叔母が茨城にいる。
心配だったけど、電話が混んでいるだろうと思って、
そちらは、かけないでおいた。
夕食はおにぎりだけにして、非常持ち出し袋をチェックしてみた。
懐中電灯の電池が切れて、懐中電灯はいくつもあるのに、
点くのが1つしかなかった。
今年、1月17日に、チェックしなきゃって思ったんだよな〜。

病院には、夜10時ごろ連絡取れた。
ナースセンターにつないでもらったら、「いつも通りですよ〜」と看護師さんに明るく言われた。
母がやっと安心したようだった。
一体なにが起こったのかよく分からないまま、
とにかくぐったりしてしまった。
夜中に余震があると危ないから、というので、
母の部屋で寝ることにした。
私が自分の部屋で寝てて、家具に埋まっても掘り出す力がないから、という理由で。
でもな〜、母の寝室の方が、倒れてきそうなものあるんだけどな。
テレビは、NHKを一晩中つけておいた。
母は、まだ眠れないというので、先に寝た。
そうしたら、朝4時きっかりにまた「グラっ」としたので、
飛び起きてしまった。
つけっぱなしのテレビを見ると、今度は震源が長野だという。
日本になにが起こったのだろうと思った。
不安がってた母は、ぐーぐー寝てた。

ちなみに、震度5強によるうちの被害は、玄関の靴箱の上にあるこけしが2つ倒れたのみ。
自分の部屋を見て、紙類が床に散乱しているのを見て、
「え、なにこれ!」と思ったが、よく見たら、確定申告の領収書類を広げてあって、
紙一枚落ちていなかった。
 
2011.03.20 Sunday 00:34 | - | - | 
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